ビル風にさらされた

先日、ある集まりに参加した。

集まりといえば友達や知り合いとのお茶に近いものも想像できるが、
それよりはさらにマジメでシビアなものだ。

それは私も含めて数人の参加者と、
それと同人数のスタッフがいる規模のもので、
グループワークの終わりに、
スタッフが参加者ひとりひとりに振り返りをする。

ひとりひとりの面接は短くはなく、
順番に受けるのもあって、私はしばらく待っていた。
目の前には一緒にグループワークをした参加者の女性がいて、
やがて、女性スタッフが振り返りをしに隣席へ腰かけた。
私ではない人の面接であるので、なるべく聞き耳を立てないようにと、
スマホからグーグルマップを開いて、
タグ付けをした美術館のなかから、
開館している近場のものを調べていた。

女性は、打ち明け話をはじめた。
内容はもちろん明かさないが、
私にとっても、胸がきゅっと締め付けられるようなものだった。

おのずと、美術館調べも精が出る。
東京都写真美術館は、休み……。
練馬区立美術館も、休み……。
そうか、月曜日はだいたいが休みか……。
そんな考えで頭を占めていたが、
徐々に彼女の口調に湿りが入るようになると、そうもいかない。
否が応でも聞いてしまう。

彼女の話は、私の感情に届くには十分すぎるものだった。
しかしまた、私の感情移入は食いとめなければ、
感情の溢れはどうしてもせき止めなければならない、とも強く感じた。
涙が流れることの判断は、それほど慎重でなければならないのだ。
他者が人の内面に染み込んでいく、その罪深さの意識の話だ。
なんとか、すんでのところでせき止めて、
入れ替え期のBunkamuraミュージアムのページを見て、
「なしかあ」と呟くことができた。

しかしふと、前を見ると、
スタッフの目から、涙がひとすじ流れているのが目に入った。

あ、泣いている。泣いているよ。
この人は、泣くことを選んだんだ。選んだのか。

私はしばし、身体が硬くなった。
緊張状態なのか、内的な刺激なのか。
さらに、泣かないことを選んだ私に、自問がつきまとった。
私にとっても身につまされるような話に、
遠くはないはずの私は、涙を流すことも、
話をあきらかに聞く姿勢もとらないまま、
ただ斜め下に目線を合わせ、液晶画面を眼圧高く凝視しているが、
果たしてそれは自身の理屈に従える選択なの?

スタッフの彼女の涙も、私の我慢も、
正しくも間違いでもなく、精一杯の姿勢であるはずなのだが、
それでも私にとってのこの姿勢は精一杯とは程遠いのかもしれない。


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