読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる
サブブログ「A Warp Day」もよろしくどうぞ。http://nightburn.blog.jp/

授業のことで話したいこと

今年度の大学の授業が、昨日をもってすべて終わりました。
もう、大学に行かねばならないな、と義務的に思うこともありません。
行きたくなければ行かなくても、
欠席日数はかさまないし、単位も落とさない。
これは喜ぶしかありません。春休み!

ところで、私は大学4年生です。
今年度のうちに、卒業することがほぼ決まりです。
(卒業者名簿に載るまでは断言できない危うさ)
ということで、昨日で大学の授業を受ける機会がなくなりました。
また受験して、学費を払わねば、授業を受けることができません。
それがほかの卒業とは違う、大学生の卒業ってところでしょうね。

いや、なんと清々しいでしょうか。
あの忌々しい「授業」という悪しき形態から、
私はなんとか卒業という、いちばん望ましい形で脱出できたのです。
おめでとう!脱獄に祝して!乾杯!!


私は、教室という空間が、授業という形態が、とっても苦手です。

まず、大量の人間をひとつの箱のなかに詰め込む、
さらには、そこから50分ないしは90分または100分、
自由に身動きを取ってはならないと言い定められている、
ということが、
なんと不自然なことでしょう。不自然極まりないです。

そう、自然なことではないのです。
だって、長時間もの間、
静止していられることが自然なことではないでしょう。
お堅いことを言ってしまうと、
自然に静止しているように見えるのは、
ただの長年の教育の恩恵によるものですし、
しっかり考えると、それが善しとされているから実践しているだけです。
そんなの、価値観さえ変わればいくらでも悪しきことにだってなります。

こんなお堅い、面倒くさいことを言ってしまうほど、
私は教室の空間が苦手です。すぐにでも脱け出したい。
つねに緊張の連続の中で、
緊張なる余計な要素を入れながら勉強をすることが、
私にとっては、よっぽどよっぽど、非合理的なことでした。


そんななかでも、好きな授業がありました。
4年生の春学期に履修した、日本の近代文学に関する授業です。

この授業は、全15回の授業のうち、数作品を読み、
その要約と文章表現についての説明を学生がする、というもの。
ストーリーの変化、描写の変化などを引用して、
「この表現には~~という意味がある」
といった説明をしていく、学生参加型の授業でした。
参加型の授業は、正直面倒ではあったのですが、
私が履修お試し期間を経ても続けようと思った大きな理由には、
出席者が私を含めて2人しかいなかったことがありました。
つまり、先生と学生、併せて3人。
これはレアです。ユートピアの環境です。
もしこの授業を外して、ほかの授業を選んだとして、
それが30人が1教室に詰められたものだったらと思うと、ゾッとします。

嬉しいことに私は、授業の内容がどのようなジャンルのものでも、
空気がのびのびしているような環境であったなら、
すぐにきっかけを見つけて好きになれる性質なので、
この授業にもすぐにやる気や楽しさが見出せました。

川端康成伊豆の踊子
宮沢賢治セロ弾きのゴーシュ
横光利一「春は馬車に乗って」
吉本ばなな「キッチン」
と、4作品でしたかね、これらを自分なりに解説していきました。
なにせ、教室には3人しかいません。空気がゆったりとしています。
青空を絵筆でスッと差したような白い雲が、窓の外をゆっくりと動き、
日差しが和らぎつつも濃い影をつくっている午後の初夏でした。
発言や熟考の一切が、強迫観念的に張り詰めていない、
私が「授業」と呼ぶとしたら、この上なく理想的な環境でした。


内容が面白いとか、学ぶものがあるとか、
そういった利点は二の次なのです。
とにかく、緊張という余計な要素が省ける環境であったら、
あとは私が努力しますから、
その時点で私にとっての「授業」であるのです。

研究室に伺って教授とお話をさせていただく、
薦められた本を読む、などなど学びの機会はたくさんありましたが、
少なくとも、4年間通っていて、最後の4年生に受けたある授業が、
私の「授業」といえる唯一のものでした。
大学在学中に見つけられてよかった。
先生、もう1人の学生、
そして出席者2人でも授業継続を認可してくれた大学に、
感謝です。大学、太っ腹!


まあ、ホントは。
素直に授業を受けて、素直に授業イエーイ!と言えていたらと
思わないわけではないですけどねw


まとめると、授業から解放されて嬉しいのなんの!
といった感じでした。そういうはなしでした。
もうちょっと近代文学の授業について書ければよかったのですが、
書くの疲れたので……またの機会に……(=ない)