決して手抜きではない

今年はじめてかき氷を食べた。
机の上で、威圧感を漂わせながら、でん、と佇んでいる。氷が硝子の器の倍は積み重ねられていて、抹茶味のシロップが、殴りつけるように荒々しく掛かっている。かき氷を食べるときに、存在感なんて考えたこともなかった。それも、以前コメダ珈琲店で食べたダルマのようなそれだって感じなかったものを。
それは、きっと、今年になってはじめてかき氷を見たからだろう。かき氷を食べるとしたら、年に1、2度、多くて3度くらいのもので、そうしたら、最後に見たかき氷の姿なんて、すぐに忘れてしまうだろう。
で、私はすっかりかき氷のスケールを忘れてしまった。そっか、かき氷って、デカいな。ほんの少し物怖じした。美味しそうだけど、涼しそうだけど、食べられるかな。
宇治金時の、さしずめ氷山に、スプーンで切り崩していく。さくっさくっ、と音も立てずに耳にした気になった。それでいて、スプーンは力を入れずとも、氷山の中へ中へと沈んでいきそうにも思えた。あ、これ、私は知ってるよ、鮮度がありながら柔らかくてふかふかだってことは、口の中でとろける、いつの間にか平らげている、相当美味しいかき氷だよ。いける。食べよう。食おう。絶対美味いって。さあ、口に入れよう。白玉も、餡子も、私を待っているぞ。よし、いくぞ。



※今後の展開は読者の皆さんにお任せします

お知らせ

『前のブログの記事』
というカテゴリに、
はてなブログをする前の、
ライブドアブログで書かれた記事をインポートしました。
振り返って読むと、
自分で言うのも変ですが、
力をかけた、切実な文章だったのが、
少しだけ力を得たような気になりました。

お時間と余裕のある方、是非。

whitesurf.hatenablog.com

 

そして、この記事インポートによって、
ちょっとずるいですが、
当ブログ記事数が50を超えました。
今年中に100を超えられたら、
嬉しいなあ、できるかなあ、ニタニタ
といった心地です。

いつもありがとうございます。
これからも、お付き合い、よろしくお願いしますね。

「言葉は想いを縛り付ける」というはなし

ここ最近の反省ごととして、
思っていることをSNSに載せすぎ、
ということがあったため、
このごろは、持ち歩きに適しているノートに
悩みや考え事をつらつらと書き連ねている。
それは近年、私が心がけていることで、
自身に転換を促したいときに使うやり方なのだ。


気が付いたときにすぐやることにしていて、
たとえ電車のなかで立っていようが、
バスに揺れていようが、
人と待ち合せているときであろうが、
読んでいようが食べていようが
聴いていようが見ていようが、
お構いなしに、気付いた瞬間のことを書く。


そうして、いざやってみて、
1日の内容を読み返してみると、
それが、なんとだいたい1日につき10頁は費やしていて、
私の頭のなかは、予想以上ぐるぐる回り、
また伝えたいこともあわあわと忙しなく、
そして、過度に悩みながら過度に悩ましいことを知った。
つくづく、過度、という言葉に尽きる。


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話は少しずれるが、
大学時代の友達が話していたことで、このようなものがある。
伝えたいことを、言葉にした瞬間、
その想い・考えの自由を保障できない、
想い・考えの自由さえ剥奪しかねない。
それは、とてももどかしいことだ。

そう述べている彼を見て、
ああ、彼は真摯だなあ、とつくづく実感したのだ。


自分の中に在る想い、というのは、言葉にした瞬間、
言語化されたそれ自体に巻き込まれてしまう。
想いが言葉に気を遣ってしまい、
伝えたい想いが縛られ、制限されてしまう。


たとえば、
「私の体調が悪いのは、○○が不調だからだ」
と言えば、○○以外の要素が除外されがちになる。
または、
「私は××を大切にしている」
と告げることで、××にばかり焦点が当たってしまう。
そして、
「私は△△が好きだ」
と伝えても、そのフレーズ自体が想いに追い付かず、
何分の一も想いを伝えられていない。


彼は、また私もまた、それをもどかしく感じ続けていた。
主に、コミュニケーションもさることながら、
自身の研究をするときにおいて、
薄墨の曇天が一面に広がるようなばつの悪さで、
常に葛藤していたのだ。


私は、彼のそういった真摯さを尊敬している。
しかし、彼のもつ、言葉と想いの関係性への真摯さ、
それが、現在の彼を苦しめているそのものであることも、
「否」とはいいきれない。


話はまた少しずれるが、
その人の、大切にしていること、信条、尊重の対象が、
時に、本人を脅かし、苦しめる主体になることがある。
私もまた、その非情さ、虚しさを噛みしめながら戸惑っている。


はい、戻ります。
想いは、すべてを伝えられない。
または、外縁部のものしか伝えられないかもしれない。
ただ、伝えることが悪ではないことを信じていたい。
「お願い信じさせて……。」が正直な気持ちだ。



以下、前述したノートから引用して、記事を終える。
その文章もまた、すべてではなく、
書き連ねること自体、すべてではないから、
どこまでも続く気になって、嫌になる。




言葉にすることによって、
言語化することによって、
その想いが、硬直し、縛られてしまうことはないだろうか。
大学に入って、ものを知るようになった。
言葉の使い方、表現の方法が、
それ以前より良く分かるようになった。
考えていること、抱いている想いを、
言葉にし易くなった。

ただ、もう一方では、
言葉にしたことで、分かった気になってしまった。
自分の考え、想いを知った気になった。
それが全てだと、思考停止や暗示の類の呑まれてしまった。

実際には、もっと、複雑で、困難で、うまく処理できず、
付き合うにしても苦しくてやりきれないものであるはずだ。
それを言葉に閉じ込めることで、
分かりやすく、扱いやすくなる代わりに、
発展性がなくなり、物の捉え方の多様さが失われた気がする。
これではいけない。
これは、変えなくてはいけない。
「わからない」と言わなくては。
怖がってもだめだ。