孤独と感謝と勝利

孤独をより意識させることは共感だろう。しかし孤独それ自体のもつ悲観は、イメージよりもずっと少なくて、思いの外心優しく柔らかくそして温かな拠り所であると信じている。

孤独は他者によって感ずるものであって、どれほど仲の良い、親愛に満ちた存在が身の周りにあろうとも、それでも他者であることに変わりなく、つまり、誰であろうと決して私ではない認識を強めるわけで、それがそのまま「孤独を知る」ということなのだろう。誰も私ではないから、でも、相手を知りたいと希求するのは、私の知らない領域を知りたい欲求と、「私の孤独」をちゃんと知り続けたい、もちつづけたいからだと、薄々にも感じている。

すべて私のためだけれど、その良き影響が相手にも与えるならば、これほど喜ばしいことはなく、だから共感というのは善だ。孤独だからこそ、私と相手を喜ばせるのだ。善すぎる。あと、すべて知ることはできないくせに、知りたい欲求はいっちょまえに元気なことが、人間らしさを感じて少しだけ可愛らしいと思う。


累計のアクセス数が、1,000を達成した。いつも誰かが読んでくれていることに、感謝の念が溢れてくる。そして、例によって伝えきれない。例によって、溢れたまま、言葉に転化できない。このタイミングでも、言葉もまた、手段でもあり、私の外部にあるものだ、と強く感じさせる。


ありがとう。
これからもよろしく。




それから、きょうのプロ野球のニュースは、広島の優勝で持ちきりだろうが、それが喜ばしいこととともに、もうひと試合、飛び抜けたスコアで、しかし僅差で勝ったチームがあるので、余裕があれば、どうかそのチームにも、ありったけの賛辞の言葉を送ってほしい。一ファンからの願望です。

スピッツのハチミツ

スピッツのアルバム『ハチミツ』が好きだ。


はじまりから終わりまでのすべての曲から、都会らしさをまったく感じさせない。その代わりに、むせるほどの草木の匂い、淡い春の薄い緑の原風景がある。
あやうげなほどに澄んだ緑に囲まれて、まるで幼くなった愛し合うふたりが、愛や熱にかこつけて、情事のようで決して情事ではないなにかを、ただひたすらに興じている。
そのようすを覗き込んでいるのか、私の中のヒリヒリとした原風景を見つめているのか、交錯してしまって、ただむせながら聴いてしまう。


このアルバムは恐ろしいから、近年のカバーアルバムは、それぞれの曲の良さ悪さを置いて、ひとこと、嫌だ、と感じた。


危うくて無理、脆くて駄目、近すぎて突き放したい、けれど聴いてしまう。スピッツのハチミツ。

水流のひとさじ


いま、‪伝えたいこと、晒したいことの出力を、ツイッターからブログへとすべて移してみたときに、私は、思ったよりも熱く熱く伝えたいことや晒したいことがあることを、そのあまりに多いことを、美醜含めて余りあるほどに感じた。また幾ら文章を書いたとして、それでも足りないほどの熱があり、それを一瞬一瞬のうちに地面へと溢れさせ蒸発させるのを黙ってみている、その苦痛さもまた耐えられない。‬


‪その一瞬の、過ぎ去っていった、「尊かったもの」「拾えなかったもの」のひとつひとつが、それらの積み重なった仮想の山が、どうか私の体内の、未だ認知していない引き出しに仕舞われていること、それをただ願うしかない。そうして、水流のなかのひとさじを掬って作る文章が、できれば近い解釈で、または大きく離れた解釈で読まれて欲しい。そして私が私の何かに気付くことに期待して、衝かれるように書いてしまう。